第 1 回 導入編

ペアトレードの数理と実践

以前執筆した「株式投資で学ぶ数理的手法 第6章」では、ペアトレードの基本的な概念について触れ、2つの資産価格の「差(スプレッド)」に着目する統計的アプローチと事例を紹介しました。スプレッドが一時的に適正水準から乖離しても、いずれ平均へと回帰する性質(Mean Reversion)を利用する戦略は、非常にシンプルで直感的です。

しかし、実務において「どの資産を組み合わせるべきか」「その平均回帰は本当に数理的な根拠に基づいているのか」を突き詰めようとすると、単なる直感や経験則だけでは限界にぶつかります。マーケットのノイズに惑わされず、ペアトレードを実践するためには、一定程度の数理的バックボーンが必要と考えます。

この連載投稿では、時系列解析の統計的アプローチを支える「Wold(ウォルド)の分解定理」を起点とし、数理的な根拠に基づいたペアトレードの進め方をまず取り上げます。ただしそこでは数理的アプローチにつきものの課題にも言及することになります。具体的に言えば厳密性を追うほどトレードの間口が狭くなる、別の言い方をすると数理的な理想をめざすほど候補になるペアの数は少なくなるという避け難い問題です。

実際の投資シーンでは十分な数の候補ペアを見つけようと思えば、数理的な制約を緩めることが必要となり、その代償として取引に伴うリスクはより大きくなります。この問題に対処するためにはリスク管理手法が重要になってきます。連載の後半では過去の株価データを対象とした取引シミュレーションを通じてリスク管理手法の有効性を確認していこうと思います。

なお、連載の最後では筆者が整備を進めている金融マーケットシミュレータ (仮称)をツールとして取り上げています。話の流れを遮らないためこのツール自体の解説は必要な部分に限定していますので関心のある方は別途本サイトで公開している関連ページを参照ください。

1. 「Woldの分解定理」とは?

1920年代から1930年代にかけて、経済学や気象学などで観測されるデータの解析(時系列分析)において、周期的な変動とランダムな変動をどう切り分けるかが大きな課題となっていました。

スウェーデンの統計学者・計量経済学者であるヘルマン・ウォルド(Herman Wold)は、1938年の博士論文『A Study in the Analysis of Stationary Time Series』においてこの定理を証明・発表しました。
彼は、観測データが過去の自身の値の線形結合(自己回帰:AR)で表されるという前提のもとで、定常過程を決定的(deterministic)部分と非決定的(non-deterministic)部分に分ける方法で定式化しました。

その後さまざまな研究者により理論が強化され、現在では、この定理はARIMAモデルやVAR(ベクトル自己回帰)モデルなど、現代のほぼすべての線形時系列モデルの理論的な正当性(基礎)となっています。

この定理を極めて直感的に表現するなら、以下のようになります。

「どんなに不規則に動くデータ(弱定常時系列)であっても、それは『完全に予測可能な部分(決定的成分)』と、『過去の予測不可能なショックが蓄積された部分(非決定的)』の2項に分解できる」

この文章のなかで弱定常時系列とは、時系列 \(Y_t\)が以下の3つの条件を満たすことを言います。

  • 期待値が時間に依存せず一定:  \(E[Y_t] = \mu\)
  • 分散が有限かつ一定:  \(Var(Y_t) = \sigma^2 < \infty\)
  • 自己共分散が時間差のみに依存する:  \(Cov(Y_t, Y_{t+k}) = \gamma_k\)

Woldの定理における非決定的成分はいわゆる無限次移動平均型時系列 \(MA(\infty)\)としてユニークに表現することができます。任意の弱定常時系列を \({Y_t}\)、決定的成分を \({y_t}\) として、まとめて定理を数式的に表現すると以下のようになります。

\[
Y_t = y_t + \sum_{j=0} ^ \infty \psi_j \, \epsilon_{t-j}
\]

少し補足すると、「決定的成分」とは、例えば周期性のある予測可能な変動(あるいは定数や明確なトレンドなど)を意味します。非決定的成分を構成する予測不可能なショック(イノベーション)は、経済学やマクロ経済学において『ファンダメンタルショック(構造的ショック)』として解釈され、インパルス応答関数の分析などに広く応用されています。

2. 弱定常時系列の平均回帰性

弱定常時系列がもつ性質のなかで注目すべきなのは、非決定的成分の時系列が平均回帰性を持つことです。以下の図は平均回帰性の説明として、簡単な弱定常時系列モデルである1次の自己回帰型モデル \(AR(1)\) の経路が最初に平均値に到達する様子を図示したものです。どの経路も時間が経つと平均値を行ったり来たりするようになる様子が見て取れます。

ここで留意しておくべきは、「非決定的成分においては」と限定したところです。決定的成分を含む弱定常時系列自体は平均回帰性を有するわけではないという事実です。

実際、決定的成分の形状によっては経路の期待値は平均へと収束するが、第一通過時間が無限大になる例を作ることができます。以下の図を見てください。このチャートは、初期値が確率1/2で+10に跳び以後+10固定の経路、同じく確率1/2で-10に跳び以後-10固定の経路から構成される決定的確率過程 \({y_t}\) 、と平均 0でホワイトノイズが有界である(例:\(-3\) から \(+3\) の間しか動かない)\(AR(1)\) 時系列を合成したものです。この時系列は弱定常の条件を満足し、経路の期待値が常に 0、という意味では平均回帰的ですが、出発点が -10 の経路が 0 へ到達する確率はゼロです。

私たちの常識的な感覚に近い「いつか必ず平均値へもどってくる」という性質は、非決定的な弱定常時系列が有するエルゴード性という概念ににより担保されることが知られています。

ペアトレードへの架け橋

単一銘柄 A の株価時系列 \(P_A\) は非定常でありランダムウォーク的な挙動を示すことが昔から知られています。しかし、別の銘柄
B を用いて、「スプレッド」と呼ばれる以下の関係式を作ってみると、\(\beta\) をうまく調整することでスプレッド時系列が弱定常的になり、その結果Woldの分解定理の知見を活用することができるケースが存在するのです。これがペアトレードを支える基本的な数理です。

\[S_t=P_A – \beta P_B\]

ある時点で \(S_t\) の平均値からの大きなずれを検出したとします。すると、これを取引のオープンのシグナルととらえ、銘柄A,Bを売り、買い組み合わせて注文します。そうすると、弱定常時系列の平均回帰性によりそのうち \(S_t\) が平均値へ戻ることが期待できます。そして実際そのタイミングが到来した時点で取引をクローズします。その結果オープン時とクローズ時のスプレッドの差の大きさに比例する投資利益を得ることができます。

3. 重要な注意: ペアトレードは投資必勝法ではありません

前記の説明を読むと重要な前提事項がペアトレードには潜んでおり、実は捕らぬ狸の皮算用をしていることがわかります。ペアトレードが成立するための大きなポイントは以下の2点です。

  • 取引期間ずっと \(S_t\) が定常時系列であること
  • 平均回帰時間が適切に短いこと

    実際に東証上場銘柄で検証してみると\(S_t\) の定常性はしばしば現れ消えます。また平均回帰時間が数百日になり信用取引には実質適用できないケースもあります。

    従って先物取引市場を対象とした裁定取引とペアトレードはスプレッドを活用する点で類似しているのですが、前者は裁定機会をゲットできた時点で利益が確定するのに対して、後者での取引利益は確率法則の成立に依拠するという点で全くリスクが異なることを認識しておく必要があります。

    4. この連載は「投資行動を支えている数理に興味がある」人向けです

    確率的な事象が示す単純な数理に触れる時、邪心や思惑の入り込む隙の無いクールな論理に筆者は魅力を感じます。反面、勝てる投資戦略に通じる道かと問われれば、そこまでの信頼感をもっているわけではありません。その意味では数理的なアプローチ自体に関心・興味を持っていただける方が想定読者です。

    次回は、時系列の理論的な考察のベースとなる移動平均モデルから出発してWoldの分解定理の数理的な定義に至る道筋を紐解いていきます。

    次回:第 2 回 移動平均型時系列モデル

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